こんにちは、ハジメです。
対照的なアイドルが対照的な曲を歌っているのがとても興味深かったので、ブログにしたいと思います。
曲名 | 歌手 | 作詞家 | 作曲家 | 発売日 |
『瞳はダイアモンド』 | 松田 聖子 | 松本隆 | 呉田 軽穂 | 1983年 12/28 |
『飾りじゃないのよ涙は』 | 中森 明菜 | 井上 陽水 | 井上 陽水 | 1984年 11/14 |
松田聖子は、自分の瞳からは涙というダイヤモンドがあふれてくると言っているのに対して中森明菜は、涙はダイヤと違うと言い切っています。同世代の人気絶頂の2人のアイドルが、曲の中で真逆の内容を歌っており、そしてどちらとも当時のオリコン1位を獲得しています。一体、2人はどんな「涙の価値」を歌っていたのでしょうか?
<松田聖子の場合>
「瞳はダイアモンド」の作曲は松任谷由実が手掛けており、「映画色の街」、「幾千粒の雨の矢たち」、「ダイヤモンド」といった歌詞が曲に綺麗に乗っており、キラキラとホワイト色に輝いている光景を見事に表現しています。
歌詞の内容は簡単に言ってしまえば、付き合ってる男から別れ話を持ち出されて女が涙を流してしまうというストーリーです。
特筆すべきポイントは、
時の流れが傷つけても
傷つかない心は
小さなダイアモンド
です。
時の流れとは、付き合い始めは「愛してる」と言ってくれていたのに、今では「愛してた」と過去形に変わってしまったことです。そして私はそんな彼の言葉になんて傷つかない、地球上で一番硬い《強い》心を持っていると鼓舞しているところがこの曲の醍醐味なのではないでしょうか。
一聞すると、私の涙はダイヤモンドくらいの値打ちがあると言っているように捉えがちですが、本当に訴えたいのは、私はどんなことにも負けない芯(真)の強い心を持っており、それが瞳となって、そして涙となって表出されているのに過ぎないということです。
<中森明菜の場合>
『飾りじゃないのよ涙は』が歌われていた時代、格好いい車を所有することがモテる男のステータスであり、そしてその助手席に乗ることがイケてる女のステータスだったのでしょう。物語はバブル全盛期、峠やサーキットでスポーツカーを乗り回し青春を謳歌しているように見える女の内心に迫っています。
赤いスカーフがゆれるのを
不思議な気持ちで見てたけど
私泣いたりするのは違うと感じた
自分が好きな男の車の助手席に乗っていた女が赤いスカーフを巻いていたのでしょう。嫉妬心や悔しい気持ちが入り混じる「不思議な気持ち」で思わず涙が出そうになりますが、彼女は泣きません。
そして友達が変わるたび
思いでばかりがふえたけど
私泣いたりするのは違うと感じた
彼女にとってどんな男も友達であり、恋人になんてなり得ないのです。そう、以前の「不思議な気持ち」になんてなりたくないのです。
私は泣いたことがない
ほんとの恋をしていない
誰の前でもひとりきりでも
瞳の奥の涙は隠していたから
いつか恋人に会える時
私の世界が変わる時
私泣いたりするんじゃないかと感じてる
きっと泣いたりするんじゃないかと感じてる
物語は核心に入ります。彼女は既に気づいてしまっているのです。本当の恋をしてしまうと私の世界が変わってしまう、今まで強くてクールな女を演じてきたのが、みんなにそして自分自身にバレてしまうのが怖いのです。つまり、彼女は正しくアイデンティティの危機に陥っているのです。彼女が苦悩している様子が曲の感嘆詞「 ha han / ho ho」からも伺えます。
人間の脆い部分を愉快にそして不可思議に表現する井上陽水に甚く感服致します。
<まとめ>
松田聖子(松本隆)が歌う涙は、自らの心の強靭さから生成された人生を輝かしく彩る、言ってしまえば「飾り」に過ぎないものなのに対して、中森明菜(井上陽水)が歌う涙は、一度流してしまえば心が崩れ落ちてしまいそうになるくらいかけがえのない、決して「飾りなんかじゃない」ものなのです。
松田聖子は光、眩しすぎて何も見えない。
中森明菜は闇、暗すぎて何も見えない。
皆さんはどちらがお好きですか?